すいかの履歴書

一生懸命、生きている人の日記。

学校教育現場における外部人材の積極的活用について

たまたま、およそ10年前に書いた大学のレポートを発掘したので原文のまま本投稿にアップロード。全体的に表現が拙いことに加えて、接続詞などがおかしい点はご容赦ください。

このレポートを改めて読み返したことをきっかけに、どのような取り組みがなされているのか調べてみたところ、文部科学省がまとめているPDF資料が見つかった。

https://www.mext.go.jp/content/20201228-mxt_kyoikujinzai01-000012000.pdf

政府主導の事業に加えて、民間においても様々なアクションが起こされていることを知った。自分自身、この問題について何かしているわけではないが、このレポートを書いてから10年経った今でも関心のあるテーマであるため、これからの動向について注目していきたいと思う。

 

以下、自身のレポート引用

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2013/01/28
キャリア教育論レポート~外部人材の積極的活用~
 
世間は教員に対して期待しすぎている。「先生」は聖人でなければ、超人でもない。一労働者である。子どもを「大人にする」という上で、学校が果たす役割は大きい。であれば、学校で働く各教員が良い成果を出すための何かしらの施策が必要だ。どんなに優れた学習指導要領や教育課程があったとしても、それらを現場で遂行するのは各学校であり、各教員である。学習指導要領に定められた内容について授業で扱うものの、それをどう解釈し、どう意味づけていくかは各教員にほぼ委ねられている。研究授業や授業参観、学校開放日などの限られた機会を除けば、教員が実施している授業内容について外部の目が入ることはあまりないと言っていいだろう。しかもそれらの機会は「学校の良いところ・綺麗なところ」を見せているだけに過ぎない。
 
「学校」「教室」という閉鎖的な空間においては「神聖さ」がある。それは、大きなリスクをも孕んでいる。児童にとっては、目の前にいる教員が「先生」そのものであり、「大人」そのものだ。中学生や高校生であれば、目の前にいる教員のことを他教員と比べて相対的に見ることができるようになるだろう。しかし小学生の場合、そこにいる「先生」を見て「先生とは、大人とはこういうものだ」という認識になりがちだ。自分一人の振る舞いによって、児童が感じたことを一般化してしまうおそれがある。だとすると、一般化されることに耐えうるような教員である必要が生じてしまう。これはかなり酷なことであるし、負担が大きすぎる。教員1人あたりの負荷を減らし、効果的なワークシェアリングを実現できるような策が望ましい。
 
小学校の教員であれば、ほとんどの科目を担当するため教員と児童が接する時間は必然的に長くなってしまう。児童にとっては、親と接する時間よりも、学校で先生や同級生と過ごす時間のほうが長い。学級担任の一挙手一投足が、子どもとその親によって注目されている。そんな中で、35~40人の児童を指導し保護者の要望にも応えるのは至難の業だ。1人の教員に過剰な負担がかかるのは望ましいことではない。過酷な労働環境の中で良いパフォーマンスは期待できない。
 
政府は今月26日、子供の学力向上のため、退職した教員や教員志望の大学生らを、補習などを手伝う「学校サポーター」として公立小中学校に派遣する事業を2013年度に始める方針を固めた(1/27 日本経済新聞)。多忙な教員の負担を減らすような形で、政府が予算を計上したということは評価できる点だ。ただ、この事業を始めたからといって劇的に業務の多忙さが改善されるかいうとそうではないだろう。「サポーター」はあくまで補助的な業務が主になる。正規教員の絶対数を増やさない限りは、教員の負担は大きいままだ。35人学級については先延ばしになってしまったことから、正規教員の数を増やすということの壁は厚い。外部人材に頼らざるを得ないのが現状ではあるが、教育への公的支出を増やし正規教員の数を増やす必要は十分にある。
 
もちろん、サポーターが学校現場に入ることによるメリットは多い。二次的な影響だが、教員志望の大学生が教育実習以外で学校現場に入ることができるのは学生にとって貴重な経験になる。また社会経験豊富な人材が子どもたちと関わることが「キャリア教育」になるだろう。教員にとっても、外部の人材とコミュニケーションをとることで学ぶことができる。そして児童生徒とのコミュニケーションを密に取ったり、教材研究をしたりといったことに時間を割くことができる。結果、教員としての専門性を必要とする仕事に多くのエネルギーを使えるようになる。
 
今回の事業の他にも、学校現場に外部人材が入り込む余地はある。学校が自前でやったほうがいいことと、外注しても良いこととの区別をする必要があるだろう。専門性を持った教員が必ずしもする必要がないことまで業務を任されていることがある。例えば部活動の顧問だ。担当する部活動に関して全くの素人であっても、責任を負わされることがある。実際の指導は外部の指導者に任せて顧問は形だけ、というケースはあるがそれにしても教員にとっては負担感が大きい。この点に関しても、外部人材を無償ではなく有償で雇用して、教員は学級運営や科目の指導に専念できる形を取れるのが理想だ。スポーツや文化的な活動の経験者で、若い人に対して指導をしたいと考える人材は多いのではないか(要調査)。そういった人々を活用することで、生徒は専門的な技術や知識を身につけることができる。
ただ、外部人材の積極的な活用をうまく進めるためには多方面での理解を得る必要がある。人材の活用によって起こり得るリスクとメリットを天秤にかけて、本格的な実践をしていくべきだ。正規教員を増やせないのであれば、非正規の人材を活用することはやむを得ないことだ。
 
昨今「イノベーション」という言葉が盛んに叫ばれている。外部人材の活用が、学校にイノベーションを引き起こす可能性だってある。前述したように、多様な人材が学校に入り込むことでキャリア教育が自然な形でなされる。「学校の先生は学校以外のことを知らないくせに進路指導をする」と言われることがある。だとすると、学校以外のことを知っている人と子どもたちが関わる機会をつくれば良いのではないか。
 
多くの大人を知る機会を小学校低学年のうちからつくることが出来れば「大人になる」ことが具体的にイメージしやすくなる。「教員の負担減」により教育の質を向上させる、という本来の目的を達成出来れば御の字ではあるが二次的な産物も期待したい。