すいかの履歴書

一生懸命、生きている人の日記。

「シューカツ」

なかなかブログを書く気になれず、しばらく更新できていなかった。

実は先日、久しぶりにパソコンを購入した。「これでサクサク文章が書ける!」と思ったのだが、いざ環境が整ったところで文字が書けるわけではないことに気がついた。

今はiPhoneで文字入力をしている。やはり、思いついた時にその場で文章作成できるのが大きい。フリックでパソコン並みに入力できるし、ブログ作成のアプリもあるので快適だ。

 

話を、大学時代に戻す。大学3年の12月、2015年卒の就職活動がスタートした。今よりも多少早い「就職解禁」である。ただ、これはあくまでも企業側が広報活動を始める目安であり、学生はこれよりも早く就活の準備をするのが普通だった。

自分は、大人たちと話をしたり交流をするのが好きだったので大学1年のころから学外の社会人と話す機会が多かった。

実際に仕事をしている人と関わることで、社会勉強になった。なによりも、自分がまだ知らない世界を知ることが楽しくて、積極的に自分より年上の方々と話していた。

 

ただ、そんな経験があったけれども就活は苦しんだ。嫌でも「自分は何者なのか」「何がしたいのか」「将来どうありたいのか」こんなことを、21歳そこそこの学生に突きつけられる。面接では「なんでウチに入社したいのか」「ウチで何をしたいのか」そんなことばかり聞かれる。

明確な答えを見つけられていなかった自分の回答は不明瞭で、面接で次々と不合格になった。いわゆる「お祈りメール」である。筆記試験の時点でも立て続けに落ち続け、さすがに心が折れた。

当時、志望動機の作成サポートや面接対策をしてくれていたコンサルティング会社の方にお世話になっていた。その方が紹介してくれた会社で最終面接まで進んだのだが、そこで落ちてしまった。頂いたメールには、こんなことが書かれていた。

『合格でなくても、Ono様を否定しているのではないことをご理解頂ければと思います。
合否はあくまでも、2015年度○△社の募集内容と合うか合わないかになるため、Ono様と一緒に働きたいと思う会社はたくさんあると思います』

こんなことをわざわざ伝えてくれる会社は、本当にわずかだと思う。縁がなかっただけだと切り替え、次に進むことが自分がすべきことだ。時はすでに2014年3月だった。

精神障害者

「安定」していることが求められる。安定した仕事なのか、収入は安定しているのか、そして、安定した精神状態なのか。

 

自分の場合は双極性障害(躁うつ病)のため、メンタルが非常に不安定である。数か月単位での気分の浮き沈みがあるし、一日単位でも気分が多少良かったり、全然だめだったりする。

そういうこともあり、「精神障害者保健福祉手帳」といういわゆる「障害者手帳」の申請を昨年末に行った。その結果、3級に該当したため手帳を取得することができた。 

「障害者」と言ったらどんな人を思い浮かべるだろうか。目に見える障害であれば、身体障害で車椅子を利用されている方が真っ先に思い浮かぶ。

いわゆる精神障害者の場合は、多くが目に見えないため「障害者」と分かりづらい。そのため生きづらさを感じている人は多い。自分もそのうちの一人だ。ただ、手帳を取得することで行政や福祉のサービスを受けやすくなるため、手帳の申請に踏み切った。

正直「障害者」になるということに抵抗があったし、今もある。「障がい」だとか「障碍」だとか色んな表記があるけれど、そんなことよりも、「健常者」ではなくなるということに戸惑いがある。

普通の人とは違う、障害のある人。障害者への差別だってある。法律で障害者を差別することは禁じられているが、「障害者は邪魔」と思っている人は多いのではないかと、私は思っている。

 

先日、ハローワークに赴き求職の登録をしてみた。いますぐ働き始めるわけではないのだが、障害者向けの求人にはどんなのがあるのかなと思って半ば興味本位で行ってみた。

その際は、求人に応募するに当たって「医師の意見書」というのがいずれ必要になる、ということを聞いた。

病状が安定しているかどうか、医師に記入してもらい働けるかどうかを知るためだ。主治医がゴーサインを出さなければ、本人は働きたくても仕事をすることはできない。

その意見書をもらったとき、ああ、やっぱり「安定」してないとダメなんだよなぁ、と思った。企業からしたら当たり前の話だとは思う。

病気の影響で頻繁に休むことになれば迷惑がかかるし、生産性だって上がらない。会社はあくまでも利益を出し、しっかりと納税していくことが社会貢献の一つである。

法律により障害者の雇用率は決まっていて、一定規模以上の企業には、障害者の雇用義務が生じる。

雇用しない場合は行政指導が行われ、国へ納付金を支払う必要もある。平成30年度からは、精神障害者も雇用率の算定対象に加えられる。

このため、精神障害者も会社で働くことができる環境が徐々に整えられると考えられるが、実際のところは難しいと思う。

日本経済新聞(電子版:2018年1月9日)では、下記のような記事があった。そもそも、企業に認知すらされていないのが現状だ。精神障害者を雇うと面倒なことになりそう、などという気持ちが少なからずあるのではと推測してしまう。

精神障害追加、半数知らず 企業の雇用義務改正で: 日本経済新聞

 

今の自分の場合、できることは病気と一生付き合っていく覚悟で、長いスパンで今後のキャリアを考えていくことなのかなと思う。

今年中には、なんとか「安定」して、少しずつ何かをやっていければいいかなと考えている。そのくらいのユルさで生きたい。

取得単位:2単位

前回、入籍したところまで書いたのだが同棲を始めた時に話を戻す。

人生で初めて彼女ができて、一緒に生活することになったということで完全に浮かれてしまっていた。
わざわざ転部試験を受けて、新しい学部に移ることができたのに、大学に行く気は全く起きない。おそらくこの時はうつ状態だったんだと思うのだが、昼に起きてアルバイト先に行き新居に帰るというような生活をしていた。
ろくに授業に出ていなかったので、試験結果は言わずもがな。普通の学生ならば、友達同士で情報交換してなんとかテストを乗り切るのだろうが、そのノウハウもない。
そういうわけで、前期の取得単位はわずか2単位。授業1コマ分である。普通は半期で20単位くらい取得するので10分の1だ。ちなみにその授業には全然出ておらずレジュメをペラペラ眺めてだけで受けたのになぜか評価Aだった。

 

そんな怠惰な生活をしていたこともあって、後期からは勉学に励むと決意し、真面目に通学して単位もある程度取れた。これには彼女の存在が大きかったと思う。

共同生活では、相手が起きると自分も起きて活動することになる。自然と朝に起き、大学もしくはバイト先に向かうリズムができた。

加えて、昼食の弁当を作ってくれたのでそれを食堂で食べることも楽しみの一つだった。海苔でメッセージを書いてくれた弁当なんかもあって、職場の人にからかわれたこともあった。

そんな幸せな同棲生活・結婚生活を送っていたが、トラブルは絶えなかった。私は秋田のど田舎出身だが、彼女は大都会の育ち。生まれ育った環境が違えば、考え方も全く違う。衝突することは多々あった。

そして、自分があらゆる面で未熟だった。2年ほど一人暮らしをしていたとは言え、料理はほとんど作れないし、家事全般が得意ではない。お互いの足りないところを補い合える関係が望ましいと思っていたが、私の力不足により彼女に迷惑をかけっぱなしの毎日だった。

そんな中でも彼女が自分のことをサポートしてくれて、大学生の自分を支えてくれた。たかだか大学の授業とアルバイトくらいしかしていない私の帰宅を待ってくれて、美味しい料理を作ってくれていた。そんな献身的な妻に、いつかちゃんと恩返しがしたい、いい思いをさせてあげたいということをいつも思っていた。

学生結婚

その人とは5月中に何度も会い、まだ20歳で何も知らない私をいろんな所に連れて行ってくれた。とはいえ彼女は1歳年上なだけだったが。

それまで国産メーカーの缶ビールしか飲んだことがなかったのだが、ベルギービールのビアバーでフルーティな香りのビールを楽しんだり、色んなラム酒を置いてあるバーに行ったり。1人ではとても行けないようないい雰囲気のレストランにも行った。東京に住んでいたものの、東京の遊び方は何も知らない私に色んな体験をさせてくれた。


5月の私の誕生日、彼女の家に行った。人生で初めて、家族以外の人に誕生日パーティをしてもらった。手作りの料理でもてなしてくれて、彼女と出会ってからその日までの写真をアルバムにしてくれていた。アルバムの最後には手書きのメッセージが添えられていて、照れくさい気持ちになったが嬉しかった。その日から交際することになった。


そしてトントン拍子で話は進み、なんと同棲をすることになった。彼女の1Kマンションに2人で暮らすには狭かったこともあり、そこそこ広い部屋を借りることにした。

場所をどうしようか、という話になって何故か「自由が丘」か「三軒茶屋」のどちらかにしようと決まった。なんでこんな高級住宅街にしようと思ったのかはあんまり覚えていない。

案の定、物件相場は高くて手ごろな物件を探すのには苦労したが、最終的には自由が丘のほうで家を決めて物件を申し込んだ。なんと、交際を始めてから1か月で同棲生活が始まった。

そして、2012年のクリスマスには自分が書けるところを全て埋めた婚姻届を彼女に手渡した。

そして、2013年1月に入籍。「スピード婚」だった。

 

21歳で、しかも学生で結婚するということには自分自身迷いもあったし、周囲の人に反対されたり、幸せになってほしいと言われたりもした。色んな意見を聞いた。自分たちとの関係性にもよるが、人によって言うことが全然違うのが興味深かった。


ー自分は、掴みかけていたこの幸せを手放すのが嫌だった。交際を長い間続けていたって、行き着く先は結婚か別れかの2択だ。私にとっては、その選択のタイミングが前倒しになっただけのことだった。

転機

キャリアデザイン学部(以下、CD学部)への転部試験を経て、2012年4月にめでたく新学期を迎えた。それまでの間に色々とあったと思うがあまり覚えていないので割愛する。

同じキャンパスの学部とはいえ、友達も誰もいない。かといって経営学部時代に友達がいたわけでもないのだが。CD学部はこじんまりとしているため、最初のうちは1人でいるのが居心地が良くなかった。

カリキュラムは何年かごとに改定されるため現在は若干違うのだが、教育・ビジネス・文化という3つの領域を軸に学ぶことができる学部だ。

各分野の専門家である教授が在籍していて、かの有名な尾木ママもうちの学部にいらっしゃった。学生専用の教室や相談ルームがあり、マンモス大学ではあるがサポート体制がしっかりしているという環境だった。

そんな環境で本来は「よし、しっかり勉強するぞ!」となるはずなのだが、全くやる気にならず、昼になっても寮で寝ているような生活を送っていた。多分、うつ状態だった。

双極性障害躁うつ病)は躁状態うつ状態が両方起きる、非常に厄介な病気だ。私はこの病に長年苦しんでいる(はず)なのだが、このときは病識がなかったため、春なのにやる気が出ない自分のことが嫌になっていた。

 

そんな中、GW前頃だっただろうか、遊びに行こうという誘いがあった。この後、お付き合いすることになる人からだった。

実はTwitterで知り合っており、1月に初めて会ったと思う。その後何回か飲みに行ったことがあった。

このとき誘われたのは、渋谷区の代々木公園で行われていた「東京レインボープライド」というイベントだった。これは

性的指向性自認のいかんにかかわらず、差別や偏見にさらされることなく、より自分らしく、各個人が幸せを追求していくことができる社会の実現を目指すイベントの総称』

https://tokyorainbowpride.com/about-trp2018

とのことだ(今年のイベントページから引用)。

今でこそメディアで報道されることも増えてきたように感じるが、そのころは自分も良く分かっていなかった。

そもそも、自分がなぜここにいるのか困惑していた。連れてきてくれた彼女のお友達とも初対面で、完全に自分はアウェイだった。ただ、この日を境に、彼女と何度も会うことになっていった。不思議な感覚があった。