すいかの履歴書

一生懸命、生きている人の日記。

大学卒業・就職

離婚の届け出は無事に終わった。とにかく、大学はちゃんと卒業しなくてはならない。同棲していた時の怠惰な生活のせいで、自分は秋学期も最後までガッツリ授業に出た。内定をもらっていたので気持ちに余裕はあったのだが、卒業できなかったらそれがパァになる。なんとしても卒業単位数を揃える必要があった。

自分の場合、卒業所要単位は124単位だった。1単位でも落とすと留年&内定取り消しになる、という授業の取り方をしていた。余裕を持って授業を取っておけばよかったのだが…。自分の見通しのなさにはほとほとあきれる。

4年生の最後の試験を終えた後、もしかしたら不合格かもしれない、という科目を担当する先生の教授室を訪ねてダメ元で「内定があるんです、なんとかなりませんか」と懇願した。そしたら先生は「私は粛々と採点するだけです」。これは留年かな、と思った。

そして迎えた卒業発表の日。Web上で発表される。結果は「卒業」。留年かもしれないと思っていたので、やっと気分が晴れた。危うかった授業の成績は、単位が認められる最低評価のC。ジャスト124単位を取得して卒業だった。

卒業はできたものの、卒業式には出席できなかった。運転免許を取っておらず、3月後半は山形で免許合宿に参加していたためだ。時間に余裕のあるうちに取っておけよ、という話ではあるが…。免許は必要性がイマイチ感じられず、かといって取らないのもアレだ、などと思っているうちに卒業を迎えてしまった。

ギリギリで申し込んだため、無事に教習をこなしても東京に戻れるのが3/31になるとのこと。絶望的な運転センスのなさで、予定通りの卒業が危ぶまれたが、なんとか入社式の前日に卒業試験を合格することができた。

そして迎えた、2015年4月1日。4年生の時からイベント等で内定先には関わってきたが、この日から正式に社員になった。期待よりも不安のほうが大きかったかもしれない。初日は労働契約書に署名をしたり、社員証用の写真撮影をしたりした。たいしたことはやっていないのだが、スーツにネクタイで入社式に出席、そして緊張でかなり疲れたことを覚えている。いよいよ社会人生活が始まるんだな、と思った。

 

本当であれば、この会社に入る前に病気のことを知っておきたかった。もっと言えば、就活前、結婚前、大学入学前に。そうしていたら、もっと人生は変わっていた。良い方か、悪い方かはさておき。これまで、さんざん病気に人生を左右されてきた。がん保険のCMじゃないけど、どんな病気も「早期発見、早期治療」が肝要だと痛感する。

双極性障害は、治らない。一生付き合っていかなきゃいけない病気だ。服薬により気分の波を小さくすることはできるが、完治はしない。このことは診断される前から知っていたから「自分はこの病気じゃなきゃいいな」と思っていた。今となっては毎日の服薬は習慣化したから負担は特にないが面倒な病気だなぁと思っている。

次回のブログからはこれまでの社会人生活を振り返ってみようと思う。

学生離婚

実家から東京に戻ったあとも、ほとんど妻と会うことなく過ごした。家には帰らず、ネットカフェやスパ・サウナ、カプセルホテルなどを転々とする日々。ときどき日中の家に帰り、必要な着替えなどを持ってまた出かける。今思い出すとなんでこんなアホなことをしていたんだろうと思う。家があるのに「ホームレス」生活をしていた。

お金はかなり使った。なぜか日本橋高島屋に行き、7万円くらいのジャケットを買った。躁状態じゃないとこんなことはしようと思わないだろう。日々の宿泊費や食事代はクレジット払いでなんとかこらえた。

妻と向き合い今後のことを話し合う必要があったのだが、とにかく逃げ回っていた。向き合って話をするのが怖かった。情けないことだし、多くの人に責められた。なによりも妻の人生を壊していた。だけどその時の自分は、とにかく逃げることしかできなかった。どこかでキチンと話をして、2人の関係に終止符を打つ必要があるのは分かっている。なのに、先送りし続けた。

夏休みころには、完全に別居生活になった。部屋の明け渡しのとき、久しぶりに家に帰ると、部屋はガランとしていた。妻は部屋を見つけて既に引っ越しを済ませていたようだ。家具・家電はいらないと言い放ってしまったので、彼女が使わないものだけが残されていた。

その部屋の鍵を管理会社に渡した瞬間、私はホームレスになった。次に住むシェアハウス入居までの10日間程度ではあるが、落ち着かない日々だった。その間はゲストハウスに泊めていただけたので、路上生活をすることはなかった。

その後、妻とはメールのやり取りなどで正式に離婚をするということで合意した。10月末、久しぶりに再会してサインと押印をしてもらった。ほとんど話はしなかった。翌日、区役所に離婚届を持参して手続きは終了。結婚も離婚も、紙切れ1枚で終わる。23歳バツイチになった瞬間だった。

離婚したといっても、それまで別居生活をしていたため特に生活が変わるということはなかった。同棲→結婚のときと同じである。ただ、離婚をすると決めたときからかなり時間が経っていたので自分のなかで「本当にこの選択で良かったのだろうか」という思いがグルグル巡っていた。「離婚するしか方法はない」という状況を自分自身がつくりだしていた。

本当は、離婚をせずに幸せな家庭を築きたかった。だけど、自分には無理だった。とても情けなかった。自分の身勝手さ、無力さ。自分の嫌なところがすべて出てしまった。

ある日、幸せそうな家族連れを見て不意に涙がこぼれた。「おれもこんなふうになれたのかな」

電車内で突然泣いたこともあった。なぜだか悲しさが一気に押し寄せてきて、顔をカバンに突っ伏して終点まで顔を上げられないこともあった。でも、全ては自分のせいだ。なんとか感情をコントロールして、強く生きなきゃいけないと思っていた。

婚姻生活と躁状態

前回のブログ シューカツ・その3 - Suica_Onoの履歴書

で記した文章作成の講座に、先日参加した。平日昼間の開催とあって参加者は年上の方ばかりだった。

現役新聞記者の方が取材のコツと執筆のコツを教えてくれたのだが、なんでも講師の方は新入社員時代は何も教えてくれず、上司に新聞を渡され「ここに答えがあるから」と言われて野に放たれたらしい。

なかなか考えられないことかもしれないが、新聞業界は未だにそんな感じなのかもしれない。とにかく自分で経験して記事を書け!みたいな。そんな中で、講師の記者が様々な経験をして「その時知っておけば良かったこと」を私たちに教えてくれた。失敗した上で「こうしておけば良かった」という気持ちがあるので非常に学びがあった。

話を聞いていて印象深かったのは、「記者として話を聞かせていただく上ですべき態度」の話だ。取材される方にとっては嫌なことを聞かれるかもしれないし、都合の悪いことは話したくないということもあるだろう。

それでも話を聞かせていただくわけだから、相手に最大限の敬意を払って接するのだとおっしゃっていた。メモを取る姿勢、相槌、取材後のフォローなど。新聞記者という仕事は記事を書くだけでなく、取材先への配慮を欠かせない。いわば営業マンのような性格もあるのだなと思った。

 

前回のブログの続き。

内定を頂いてもちろん嬉しかったのだが、実は卒業が危うかった。同棲していたときのクソ生活の影響をモロに受けた。何もやる気が出ないうつだった時期もあったということは確かだが、それ以上に計画性の無さが自身を苦しめることになった。

普通、大学4年生にもなれば「あとは卒論だけ〜」となるのであるが、自分は熱心に週5で大学に通わざるを得なかった。朝から昼過ぎまでアルバイトをしてから移動して4限、5限、6限に出席するみたいな生活をしていた。

そして、おそらく4年生の春学期は躁状態もしくは軽躁状態だったであろう。妻と言い争いになりトラブルになることが増えていた。「内定を取ったからといって偉そうになっている」そんなことを言われたのは今でも覚えている。だけどそのときの自分は反省することもなく、奢っていたような気がする。

おそらく、躁状態だった。だけどそのときは気づかず、「おれの人生はおれが決める」そんな態度で妻と接していた気がする。今まで支えてもらっていたのにヒドい態度だと思うが、そんな状態だった。

そんななかでお互いうまくいくわけもなく、4年生の6月に私は「家出」をした。妻に行き先を告げず、実家に帰った。本来であれば面と向かって話をして、解決すべきだったのだが、そのときは無理だった。とにかく自分は逃げるしかないと思い、故郷の秋田に避難してしまった。そこから別居生活が始まった。身勝手な生活の始まりだった。

シューカツ・その3

またしても前回投稿から日にちが経ってしまった。ブログを書いてカネを貰っているわけではないので、書きたいという気持ちにならないと書くことかできないというのが残念ながら正直なところだ。

つくづく、文章を書いてメシを食っている人を尊敬する。Twitterで「原稿の締切なのにやる気が出ない」などという投稿を時たま見かけるが、気持ちだけはよく分かる。

義務感がある中で、無理くり文章を書くという行為をするのは非常にストレスがかかるものだ。人間というのは何らかのストレスを加えられないとやる気にならないイキモノである(と思う)。

 

先日、図書館をブラブラしていたら「現役新聞記者に文章作成を学ぶ講座」というのが開かれるとのことで、来週から参加できることになった。

現時点ではブログは趣味としてやっているが、プロの書き方を真似して少しでもいい文章をかけるように頑張ってみようと思う。私は以前、某新聞社の最終選考で落ちてしまったのだが、新聞記者を目指していた時期があった。新聞は、見出しの大きさやリード文で重要なことをまず伝え、徐々に詳細を書いていく方式がほとんどだ。新聞とブログはもちろん違うのだが、読みやすく中身のある文章を書けるように頑張りたい。

 

話を前回の続きに戻す。

大学4年の就職活動で、迎えた最終面接の日。前回、最終面接でダメだったときは自分を「作り込み」すぎていた。今回は極力、自然体でいこうと思っていた。

7:1だっただろうか。大きい会議室で、自分1人以外は会社の役員・部長級の方が目の前にいらっしゃったのだが、不思議と緊張はしなかった。「自分がやってきたことを正直に話すだけ」そう思っていたので、どんな質問が飛んできてもその場で考えて答えられればいいと開き直っていた。その時の、自分が集中していた感覚は4年近く経った今でもよく覚えている。フロー状態とでもいうのだろうか。なぜか、余裕があった。

その最終面接が終わったあと、別の会社の面接が1件あった。それを終えた夕方、ファミレスで夕食を取っていた時に電話が鳴った。「内定ということになりました」

内心「よっしゃ!」と思った。電話で人事の方と話していくうちに、実感がどんどん湧いてくる。就活をする前までは、一消費者としてしか関わったことのない企業だが、いざ内定を頂いたら「ここで俺は働くんだ!」と思い、前向きな返事をして電話を切った。

後日、内定通知書とそれに伴う承諾書が自宅に届いた。そのころまでにはその会社に就職するということは決めていた。それはもちろん妻とも話した。選考途中だった他企業には辞退の連絡をした。手紙とともに承諾書を送り返して、長かった(個人的には)「シューカツ」は幕を閉じた。あとは大学を卒業するだけだ、しかし…。

シューカツ・その2

就活が3年生の12月"解禁"だったので、4年生になる前の春休みには既に内定が出ている学生は多い。いわゆるベンチャー企業なんかは早期に内定を出している。その内定を得た上で大手企業の選考に臨むのが一般的だ。

そんな中で自分はいわゆる「無い内定」の状態で、就職活動を続けていた。

 

前回のブログで書いた、最終面接まで進んだ企業を受ける際には綿密な計画・対策をした上で臨んでいた。先方が求めている人材とは何か、自分が会社に対して提供できることは何か…など。

いろんなことを考え準備した上で臨んだ、副社長との面接。そこで言われたのは「あなたの本心が見えない」。緊張のあまり、当時の状況を正確には思い出せないが、そんなことを言われた記憶がある。そして、予想通り不合格であった。

 

そんなこともあって、これから受ける企業には「ありのままの自分」を表現しよう、そう思っていた。アナ雪ではないが、そうするのが一番いいんじゃないかと、なんとなく感じていた。そう思って、2014年3月の就活に臨んでいた。

 

大学の図書館に設置されているパソコンで企業調べをしていたとき、プレジデントだったかの経済誌で気になる特集を見つけた。

「あまり知られていないけど年収が高いランキング」

面白そう!と思って、画面をスクロールした。すると確かに、聞いたことはないけれど高年収の企業がズラズラと出てくる。その中に、私でも知っている企業があった。誰でも知っている、全国的に展開しているアイスクリーム屋さん。平均年収は700万円越えだった。それにつられて、マイナビからエントリーした。

 

そうして参加した就職説明会。帰り際、参加者全員にアイスクリームのギフト券を配っていた。「交通費としては足りないかもしれませんが、宜しければお受け取りください」有り難く受け取った。「なんていい会社なんだ!」

説明会に行ってもそっけない対応をされる会社も多い中、わざわざて手渡しでギフト券をくれるなんて…その説明会では結構つっこんだ所まで話してくれて、その企業の懐の深さに惚れた。
その説明会では、筆記試験も同時に行われた。自分は無事に通過することができて、一次面接に進むことができた。

その面接で「いま一人暮らしですか?」と聞かれた。私は「いや、二人暮らしです」と答えた。そこで色々と話をして、実は結婚しているんです。ということを正直に伝えた。なかなか稀有な例とは思うが、担当の方は私の話をしっかりと聞いてくれた。

そして、一次面接は通過。二次面接に進んだ。部長級の方2人と、人事の担当者2人が同席する4対1の面接。

「最近読んだ本は何ですか?」

とっさに、「『ストレングスファインダー』っていう、自分の強みを知ってそれを仕事に活かす本です」そう答えた。二次面接も通過して、最終面接に進むことになった。

最終面接の日は4月4日。マイナビ上で日程を決める。おそらく候補者は5人いた。そこで自分は考えた。当日は午前中に面接をして、それを基に午後、内定者を決める会議が行われる。もしそうだとしたら、最初もしくは最後の候補者であれば印象に残りやすいのではないか?

自分なりにそう仮説を立てた上で、自分は5つあるうち最後の枠に予約をした。

あくまでも予測だけれども、「どうしたらこの会社の内定を取れるのか」そのことを考え、本当に必死だった。