すいかの履歴書

一生懸命、生きている人の日記。

婚姻生活と躁状態

前回のブログ シューカツ・その3 - Suica_Onoの履歴書

で記した文章作成の講座に、先日参加した。平日昼間の開催とあって参加者は年上の方ばかりだった。

現役新聞記者の方が取材のコツと執筆のコツを教えてくれたのだが、なんでも講師の方は新入社員時代は何も教えてくれず、上司に新聞を渡され「ここに答えがあるから」と言われて野に放たれたらしい。

なかなか考えられないことかもしれないが、新聞業界は未だにそんな感じなのかもしれない。とにかく自分で経験して記事を書け!みたいな。そんな中で、講師の記者が様々な経験をして「その時知っておけば良かったこと」を私たちに教えてくれた。失敗した上で「こうしておけば良かった」という気持ちがあるので非常に学びがあった。

話を聞いていて印象深かったのは、「記者として話を聞かせていただく上ですべき態度」の話だ。取材される方にとっては嫌なことを聞かれるかもしれないし、都合の悪いことは話したくないということもあるだろう。

それでも話を聞かせていただくわけだから、相手に最大限の敬意を払って接するのだとおっしゃっていた。メモを取る姿勢、相槌、取材後のフォローなど。新聞記者という仕事は記事を書くだけでなく、取材先への配慮を欠かせない。いわば営業マンのような性格もあるのだなと思った。

 

前回のブログの続き。

内定を頂いてもちろん嬉しかったのだが、実は卒業が危うかった。同棲していたときのクソ生活の影響をモロに受けた。何もやる気が出ないうつだった時期もあったということは確かだが、それ以上に計画性の無さが自身を苦しめることになった。

普通、大学4年生にもなれば「あとは卒論だけ〜」となるのであるが、自分は熱心に週5で大学に通わざるを得なかった。朝から昼過ぎまでアルバイトをしてから移動して4限、5限、6限に出席するみたいな生活をしていた。

そして、おそらく4年生の春学期は躁状態もしくは軽躁状態だったであろう。妻と言い争いになりトラブルになることが増えていた。「内定を取ったからといって偉そうになっている」そんなことを言われたのは今でも覚えている。だけどそのときの自分は反省することもなく、奢っていたような気がする。

おそらく、躁状態だった。だけどそのときは気づかず、「おれの人生はおれが決める」そんな態度で妻と接していた気がする。今まで支えてもらっていたのにヒドい態度だと思うが、そんな状態だった。

そんななかでお互いうまくいくわけもなく、4年生の6月に私は「家出」をした。妻に行き先を告げず、実家に帰った。本来であれば面と向かって話をして、解決すべきだったのだが、そのときは無理だった。とにかく自分は逃げるしかないと思い、故郷の秋田に避難してしまった。そこから別居生活が始まった。身勝手な生活の始まりだった。