すいかの履歴書

一生懸命、生きている人の日記。

続・近況報告

久しぶりに記事を書く気になった。過去から振り返って社会人1年目の途中まではブログに書いたけど、その後の人生転落っぷりがすごすぎて書くのを躊躇している。いつか書こうとは思っている(いつになるのか…)。

 

就労移行支援事業所に通ってから2か月あまりが経過した。今のところは順調に通所できている。スタッフの方々がとても親切で、今通っている所に決めて良かったと思う。

1日のスケジュールとしては、9:30〜10:00の間に事業所に入る。10:00〜12:00が午前の訓練。昼食休憩1時間を挟んで13:00〜15:00が午後の訓練。15時には事業所を出ることになる。

自分は朝ギリギリまで寝てしまうので9:00ごろ起きても訓練に間に合ってしまう。これを改善しようと早起きを試みたが、うまくいかなかったので現在は諦めている。

うつ状態になると過眠になりがちなので、現在はその影響なのだと思う。医師に相談して服薬時間の調整をしたが、効果はあまりなかった。

いまの悩みは訓練以外の時間にやることがない・やる気が起きないということ。以前であれば図書館で読みたい本を見つけて読んでいたけど、最近は集中力が続かなくてあまり読めない。新聞を読んでも内容があまり入ってこないのがつらい。

そんな中で唯一の楽しみはTVでのプロ野球観戦。平日は早く18:00にならないかとソワソワしている。昨年から北海道日本ハムファイターズを応援している。今年のファイターズは主力選手の退団によって苦戦すると予想されていたが、現在パ・リーグ2位と健闘している。

ファイターズの打線上位はほぼ固定されているが、下位は日替わりで調子の良い選手が起用されることが多い。結果を出せば次の試合も使ってもらえるが、結果を出せなければ控えに回るか二軍での再調整を命じられる。毎日見ていると「この選手は二軍落ちかな…」とか「明日もスタメン起用ありそうだ」などが何となく分かってくる。そんなことを考えるのも楽しみの一つだ。

医師からは、体を動かすような趣味を持ちなさい、とは言われているが現在はファイターズの試合を観ることくらいしか趣味がない。これでも楽しみがあるだけマシと考えたいと思う。

 

もうすでに、病気と診断されてから9か月が経過した。そして先日、27歳になった。この9か月は本当に何もできなかったし、ただ生きているだけだなぁと思うような日々が続いた。いつかこの日々を肯定的に捉えることができる日まで、とりあえず生きていたいと思う。

近況報告

双極性障害と診断されて、休養期間に入ってから8か月が経った。これまでの間は生産的なことは何もしていない。図書館で本を読んだり、旅に出たりするくらい。何もできない自分に悶々としながら、とりあえず「生きて」きた。

現在の主治医には、「暴力と自殺だけはするな」と言われた。今でもそのときのことを鮮明に覚えている。先生にとってはこの病気の人全員に言っていることだとは思うが、自分の病気に真剣に向き合ってくれる人が(診察中だけとはいえ)目の前にいるということの嬉しさに泣きそうになった。

今年になってから、精神障害者保健福祉手帳3級を取得した。まさか自分が「障害者」になるなんて思っていなかった。交通費の助成を受けられるため手帳取得に踏み切ったのだが、自分が障害者だということを受け入れることは難しかったし、今後もそうだと思う。

現在は就労移行支援という福祉サービスを利用して、日中はパソコン作業や就職に向けたワークなどをして過ごしている。夏ごろまでには就職をしたいと思い、最近は履歴書と職務経歴書の作成をしている。これらの書類を作っていると、どうしても経歴のブランクのことが気になってしまう。職歴は2017年1月で途切れている。1年3か月以上も仕事から離れていることになる。

支援してくれる方には「そのくらいは問題ないよ」と言われるが、自分としては心配しかない。障害者雇用の枠に応募するつもりでいるが、自分のような経歴の人間を採用してくれる会社はあるのだろうか?採用されたとしても、長く続けられるのだろうか?そもそも自分は会社員として生きていくのがいいのだろうか?…などなど。

不安は尽きないが、まずは求人に応募して、自分のことを受け入れてくれる企業に巡り合えるように行動していけたらいいなと思っている。

将来的には、障害者枠ではなく一般の人たちに混じって就労できるようになりたい。この病気は治ることはないが、良くなることはある。いわゆる「寛解」状態である。症状をコントロールして働いている人はたくさんいる(らしい)。まずは、仕事が人並みにできるようになりたい。しっかり稼げるようになったら、もう一度結婚したい。幸せな家庭を築きたい。一度失敗はしているけど…。

27歳になる今年、どこまでできるかは分からないけれど自分なりに色々と頑張ってみたいと思う。

新卒1年目

新卒で入社した会社は食品メーカーではあるが、自社商品を販売する店舗を全国に展開しているため小売業の要素もあった。お店の99%はフランチャイズ店舗のため、ビジネスモデルとしてはコンビニチェーン本部に近い。CVSと異なるのは、自社で製造した商品を直接店舗に納品して販売することができるため利益が出やすい構造になっているという点だ。

新入社員は直営店に配属されるため、まずはじめは店舗業務が行えるよう研修を3週間ほど行った。自分は接客業をしたことがなかったので、レジ操作や接客言葉になかなか慣れずに苦戦した。加えて、商品作成はある程度技術を要するので居残りで練習してようやく新入りアルバイトに追いつけるくらいにはなった。

そして研修の総仕上げとして、ゴールデンウィークにセール期間中の店舗で現場に立った。お客様が店の外にまで並び、いつまでも列は途切れない。必死に目の前のお客様の注文を取り、間違いのないように商品を作った。それでも間違えることはあったが、謝罪して作り直した。

 

入社3か月は研修期間で、その間に座学や店舗実習を通して「店長」になるまでの準備をしていく。7月には店舗に配属され1店舗を任される。その楽しみもあったが不安のほうが大きかったように思う。

そうして迎えた7月。なんと自分は2店舗の店長になった。近接する店舗とはいえ、2つの店を任されるとは思っていなかったので驚いた。前任の先輩から引き継ぎを受けて、徐々に自分が店舗を管理するようになった。接客レベルもまだまだ、というのに店長になることはなかなか厳しかったが、いい経験をさせてもらっていた。

しかし、経験が豊富で接客も上手なアルバイトの従業員に対して、指示は出しづらかった。つい最近入社したばっかりの人間が「店長」として振る舞うというのは自分にとっても違和感があった。まずは自分がアルバイトの従業員に色々学ばせてもらうという姿勢でいるように心がけた。従業員にはどう映っていたかはわからないが…。

そういった後ろめたさを感じていたこともあって、「店長」として本来取るべきリーダーシップは取れないでいた。研修で学んできたことはいわば「理想のオペレーション」。実際の店舗では、すべきことを省略していることもあるし、そもそも従業員が正しいオペレーションを知らないということも多々あった。それらを放置せず、「理想の店舗」づくりをしなければいけない。どこまでやったらいいのか分からず、かなり戸惑った。結果、店長として出すべき指示を出せないこともあった。

そういった葛藤がありながらも、なんとか日々の業務をこなして、秋には先輩が離れて自分1人で管理することになった。そしてそのタイミングで、他部門の先輩社員が店舗に配属されることになり、自分の担当は1店舗のみになった。自分で2店舗やるつもりでいたので拍子抜けしたが、自分が教える立場になることで理解が深まることもあり、これもまた貴重な経験になった。

このころ、仕事が楽しいと思えることが増えていたように思う。アイデアも出るようになったし、アクションもどんどん起こした。おそらく、4月〜9月ころはうつ状態で、10月ころからは躁になっていたような気がする。そして、冬にかけて躁は加速していった。自分は仕事に必死で、何にも気づけていなかった。

大学卒業・就職

離婚の届け出は無事に終わった。とにかく、大学はちゃんと卒業しなくてはならない。同棲していた時の怠惰な生活のせいで、自分は秋学期も最後までガッツリ授業に出た。内定をもらっていたので気持ちに余裕はあったのだが、卒業できなかったらそれがパァになる。なんとしても卒業単位数を揃える必要があった。

自分の場合、卒業所要単位は124単位だった。1単位でも落とすと留年&内定取り消しになる、という授業の取り方をしていた。余裕を持って授業を取っておけばよかったのだが…。自分の見通しのなさにはほとほとあきれる。

4年生の最後の試験を終えた後、もしかしたら不合格かもしれない、という科目を担当する先生の教授室を訪ねてダメ元で「内定があるんです、なんとかなりませんか」と懇願した。そしたら先生は「私は粛々と採点するだけです」。これは留年かな、と思った。

そして迎えた卒業発表の日。Web上で発表される。結果は「卒業」。留年かもしれないと思っていたので、やっと気分が晴れた。危うかった授業の成績は、単位が認められる最低評価のC。ジャスト124単位を取得して卒業だった。

卒業はできたものの、卒業式には出席できなかった。運転免許を取っておらず、3月後半は山形で免許合宿に参加していたためだ。時間に余裕のあるうちに取っておけよ、という話ではあるが…。免許は必要性がイマイチ感じられず、かといって取らないのもアレだ、などと思っているうちに卒業を迎えてしまった。

ギリギリで申し込んだため、無事に教習をこなしても東京に戻れるのが3/31になるとのこと。絶望的な運転センスのなさで、予定通りの卒業が危ぶまれたが、なんとか入社式の前日に卒業試験を合格することができた。

そして迎えた、2015年4月1日。4年生の時からイベント等で内定先には関わってきたが、この日から正式に社員になった。期待よりも不安のほうが大きかったかもしれない。初日は労働契約書に署名をしたり、社員証用の写真撮影をしたりした。たいしたことはやっていないのだが、スーツにネクタイで入社式に出席、そして緊張でかなり疲れたことを覚えている。いよいよ社会人生活が始まるんだな、と思った。

 

本当であれば、この会社に入る前に病気のことを知っておきたかった。もっと言えば、就活前、結婚前、大学入学前に。そうしていたら、もっと人生は変わっていた。良い方か、悪い方かはさておき。これまで、さんざん病気に人生を左右されてきた。がん保険のCMじゃないけど、どんな病気も「早期発見、早期治療」が肝要だと痛感する。

双極性障害は、治らない。一生付き合っていかなきゃいけない病気だ。服薬により気分の波を小さくすることはできるが、完治はしない。このことは診断される前から知っていたから「自分はこの病気じゃなきゃいいな」と思っていた。今となっては毎日の服薬は習慣化したから負担は特にないが面倒な病気だなぁと思っている。

次回のブログからはこれまでの社会人生活を振り返ってみようと思う。

学生離婚

実家から東京に戻ったあとも、ほとんど妻と会うことなく過ごした。家には帰らず、ネットカフェやスパ・サウナ、カプセルホテルなどを転々とする日々。ときどき日中の家に帰り、必要な着替えなどを持ってまた出かける。今思い出すとなんでこんなアホなことをしていたんだろうと思う。家があるのに「ホームレス」生活をしていた。

お金はかなり使った。なぜか日本橋高島屋に行き、7万円くらいのジャケットを買った。躁状態じゃないとこんなことはしようと思わないだろう。日々の宿泊費や食事代はクレジット払いでなんとかこらえた。

妻と向き合い今後のことを話し合う必要があったのだが、とにかく逃げ回っていた。向き合って話をするのが怖かった。情けないことだし、多くの人に責められた。なによりも妻の人生を壊していた。だけどその時の自分は、とにかく逃げることしかできなかった。どこかでキチンと話をして、2人の関係に終止符を打つ必要があるのは分かっている。なのに、先送りし続けた。

夏休みころには、完全に別居生活になった。部屋の明け渡しのとき、久しぶりに家に帰ると、部屋はガランとしていた。妻は部屋を見つけて既に引っ越しを済ませていたようだ。家具・家電はいらないと言い放ってしまったので、彼女が使わないものだけが残されていた。

その部屋の鍵を管理会社に渡した瞬間、私はホームレスになった。次に住むシェアハウス入居までの10日間程度ではあるが、落ち着かない日々だった。その間はゲストハウスに泊めていただけたので、路上生活をすることはなかった。

その後、妻とはメールのやり取りなどで正式に離婚をするということで合意した。10月末、久しぶりに再会してサインと押印をしてもらった。ほとんど話はしなかった。翌日、区役所に離婚届を持参して手続きは終了。結婚も離婚も、紙切れ1枚で終わる。23歳バツイチになった瞬間だった。

離婚したといっても、それまで別居生活をしていたため特に生活が変わるということはなかった。同棲→結婚のときと同じである。ただ、離婚をすると決めたときからかなり時間が経っていたので自分のなかで「本当にこの選択で良かったのだろうか」という思いがグルグル巡っていた。「離婚するしか方法はない」という状況を自分自身がつくりだしていた。

本当は、離婚をせずに幸せな家庭を築きたかった。だけど、自分には無理だった。とても情けなかった。自分の身勝手さ、無力さ。自分の嫌なところがすべて出てしまった。

ある日、幸せそうな家族連れを見て不意に涙がこぼれた。「おれもこんなふうになれたのかな」

電車内で突然泣いたこともあった。なぜだか悲しさが一気に押し寄せてきて、顔をカバンに突っ伏して終点まで顔を上げられないこともあった。でも、全ては自分のせいだ。なんとか感情をコントロールして、強く生きなきゃいけないと思っていた。